TRAVELER'S JOURNAL

世界一周経験者による、本・旅・アートの記録

【DIARY】わが家の選挙模様

うちの家は祖母(80代)・父(60代)・母(60代)・私(20代)の4人家族。政治的意見はみなバラバラです。

完全に右派・外国人嫌い・政治は男にまかせよという主張の祖母、そこまで偏ってはないけど保守の父、時々によって揺れ動く母、リベラルなわたし。

わたしは以前特にこだわりもなく、比例は保守、小選挙区はリベラルなどとコウモリのような投票をしていましたが、最近ふと気づいたら、今の日本はクレイジーではないか? という考えが強くなっていました。

勝ち組のはしごを降りると、地べたには理不尽も不平等もごろごろしている。
また、旅で訪れたアジアやアメリカを思い出し、それらの国と日本との関係を、自分なりに考えるようになったからかもしれません。

そんなわけで、ワイドショーを見ながらわたしと祖母が言い争い、母の浮動票を自陣営に取り込もうとすることもしばしばです。

現状投票先未定の母も、これまで保守への投票率が高かったことを考えると、わが家における保守とリベラルの比率は3対1。

しかし。

高齢の祖母は選挙に行くのを億劫がり、父も体調が優れず投票に行けるかは不明。
この2人が投票しないとすると、母が保守政党に入れたとしても、投票結果でみれば1対1。
おおっ、わたしの1票はけっこう重い!

こうして世代交代が行われていくのだと、なーんか実感した次第です。

***

しかし一方、いっそ主義主張はどうでもいいから、とにかく女性の議員が増えてほしいとも思います。

日本のジェンダー・ギャップ指数の赤面ものの低さ(144か国中111位。2016年10月21日日経新聞)には、思わず

日本って「先進」国じゃなかったっけ?

と言いたくなりますし、政治だけでなく、三権全てに女性の存在が増してほしい。

たとえば夫婦同姓についての訴訟、一昨年の冬にでた最高裁判決は、夫婦同姓は合憲という結論でした。

しかし、夫婦同姓は違憲とした裁判官も、15人中5人いました。
そして女性裁判官3人は全員、違憲と判断している。

当事者か否かで見える景色は違ってくることでしょう。
今回の選挙にもくっついてくる最高裁裁判官の国民審査、わたしはこの判決文を思い出し、「この人確かこんな意見を出してたな」などと考えながら、小さな用紙を見つめるのかもしれません。

とにかく、ぜーんぜん女性が活躍してないオッサン臭い内閣も、既得権益の利益代弁者もみたくない。
地べたの生活に共感を抱く人を望んで、わたしは一票を投じます。

 

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ニューヨーク近代美術館、アメリカの画家ワイエスの代表作〈クリスティーナの世界〉。足に障害のある女性の視点で見る「世界」に、ハッとさせられた)
 

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【BOOK】星を見た人生 ⑵ ー生がぎらりと光るとき

わたしが『ねずみ女房』という絵本で一番美しいと思うのは、めすねずみが「星を見た」場面です。
この瞬間のことを何と形容していいのか、自分ではうまい表現が浮かびません。

しかし、茨木のり子の詩に、まさにこの瞬間を言い表している言葉を見つけました。

《世界に別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう

……中略……

〈本当に生きた日〉は人によって
たしかに違う
ぎらりと光るダイヤのような日は
銃殺の朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ》
(「ぎらりと光るダイヤのような日」より)

めすねずみが「星を見た」瞬間とは、まさに「本当に生きた」と感じられるような、「ぎらりと光」り輝く一瞬だったと思うのです。

* * *

さて、⑴の冒頭にあげた不倫問題について触れましょう。

不思議の国のアリス』をはじめ多くの絵本や児童文学を翻訳している、作家で翻訳家の矢川澄子は、『わたしのメルヘン散歩』という本のなかで、『ねずみ女房』についてこう述べています。

《これはもう堂々たる姦通讃歌ではありませんか。》
《ひょっとするとこれは、どんなポルノ番組やH漫画よりもはるかに深甚な影響力をもつ破壊的文書かもしれません……》

わたしも『ねずみ女房』は、良き妻良き母という、日本の家庭で長らく女性に求められ押し付けられてきた道徳規範に一石を投じる本だと思います。

めすねずみは恋をしている。
ただし、はとに対してではなく、自分を囲いこんでいる生活の、その外の世界へ恋情に見えます。

まあ、この本でめすねずみははとにキスされており、相手方からの不意打ちとはいえ、

えっと「一線」こえちゃった?

という状況なんですが。
チューがセーフかどうかについては、渦中の議員にでもきいてみたいところです。

いずれにせよ、めすねずみははとという夫以外の異性にではなく、はとを通してみた「窓の外の世界」に、胸が締めつけられるような憧れを抱いたのでしょう。

矢川澄子は『ねずみ女房』を、不倫の本だと糾弾したいわけではもちろんありません。
考察はこう結ばれています。

《遠くを見つめる目をもつものともたないもの。
何かを知ってしまったひととしらないひと。
……ゴッデンのいちばん描きたかったものは、この奥さんの知恵の悲しみ、強者の孤独みたいなものかもしれませんね。
奥さん(注:めすねずみのこと)の思いを知るひとは、奥さんのほかにはだれもいないのです》

「星を見た」という、その後の人生にまで沁みとおる強烈な体験が、ほかの人間(というかねずみ)には理解されない「孤独」といわれると、うーん、たしかにそうかもと思いました。
「〈本当に生きた日〉は人によって たしかに違う」のですから。

* * *

めすねずみは「星を見た」あと巣に戻りましたが、反対に、「星を見る」ために家を出る女性が描かれている作品もあります。
ノラという女性を、次に紹介したいと思います。

(⑶につづく)

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ニューヨーク近代美術館フリーダ・カーロの自画像。この人もいろんな殻を突き破って、星を希求したんだろうなあと思う)

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【ART】わが愛しのファーブル ⑴ ー今森光彦 切り紙の世界展

 わたしはけっこう自然や動物の本を読むのが好きで、そのおかげかゴキブリなど忌み嫌われる昆虫もヘーキ。

そしてアジアの屋台で飯を食う際には常にハエと共存していたため、ますます鍛えられたように思います。

虫ぐらいムシしないと旅はできない。
あ、もちろん需要があれば「きゃーコワイっ!」とでも言いますが。

そんなわけで、先日訪れた「自然と暮らす切り紙の世界ー里山のアトリエで生まれる命たち」という展示も、紙で作られた昆虫たちをワクワクしながら見て回りました。

* * *

全ての作品は写真家の今森光彦の手によるもの。

今森光彦は昆虫を中心に世界各国で写真を撮るほか、琵琶湖のほとりにアトリエをかまえ、人と自然がかかわる「里山」の保存を行っています。
数年前に藻谷浩介の『里山資本主義』という本が売れて、いまでこそ「里山」は聞き慣れた言葉ですが、今森光彦はこの概念を早くから提唱し実践していました。

わたしは彼の写真作品については雑誌などでたびたび目にしていたものの、切り紙の作品をこんなに作っていたとは知りませんでした。

切り紙なんて紙を切って貼っただけでしょ、と子どもの遊びの延長程度に思っていましたが、紙を重ねて平面で表された虫や鳥、動物たちは、色の鮮やかさとともに、羽の一枚一枚に数色を重ねる繊細さもまとっています。

切り紙の作品集『Aurelian』で、

《私がハサミにこだわりつづけた理由は、ハサミの場合は、道具としてではなく、あたかも神経がかよっている手の先の一部のように感じられたからだと思います。》

と語っているように、近づいてよく見ると、紙が浮いている部分の影や、ハサミの切り込みが見えて、神業のなかに人間味が感じられます。

色とりどりの植物にむらがる蝶やハチドリの作品を見て、わたしはペルーのナスカの公園で、忙しく飛び回るハチドリの様子を思い出しました。

紙と一本のハサミで作られた作品が、比喩を超えて「生きている」。
こんなにも生命にあふれた作品を作り上げることができるのは、日々虫や鳥を徹底的に観察しているからでしょう。

《切り紙というと、部屋の中の作業に思われがちですが、私の場合は、里山を散策したり、見知らぬ土地を旅したりなど、幅広い野外活動とつながっています。
もしかしたら、切り紙は、フィールドから感性をもちかえるためのエコバックのような働きをしているのかも知れません。》
(『Aurelian』より)

世の中には見てもいないことをペラペラという人もいますが(特に立派な名刺を持ったスーツ姿の人に多い)、「見て触って感じた」人々の意見や作品こそ、真に信頼に足る。
写真や切り紙に限らず、改めてそう思いました。

* * *

さて、今森光彦が昆虫に深い愛情を抱いたのには、やはりあの名著があったようです。

《幼いころに『ファーブル昆虫記』を読み、いつかはファーブルのように好きな虫を、好きなだけ、好きなように見ていたい。
そんな思いをずっと心の底に抱えていたのです。》
(「kotoba」2017年夏号より)

そして、ふるさとの自然環境の劣化を目の当たりにしていた彼は、滋賀県の田園にアトリエを建て、里山を保存した。

《雑木林やため池を造り、畑地を備えたファーブルのアルマスのようなものを造る。
そうすれば、ここに様々な生き物が集まってくるはずです。》
(同上より)

「アルマス」とは荒地を意味し、ファーブルが造った庭が、こう呼ばれています。

わたしが昆虫や自然に関心を持ったのも、『昆虫記』がきっかけです。

思えば小学生のときに出会ったファーブルが、渋めのナイスミドル好きの原点と呼べるのかもしれない……というのはおいといて、わたしも「アルマス」が見たくて南フランスを訪れた、ファーブルに憧れを抱く者の一人です。

(⑵につづく)

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神戸ファッション美術館のファッショナブルな外観)

f:id:traveler-nao:20170928103513j:plain (心から「楽しいっ! 」と思える展示だった。大人も工作したっていいじゃないか)

 

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