【ART】わが愛しのファーブル ⑴ ー今森光彦 切り紙の世界展
わたしはけっこう自然や動物の本を読むのが好きで、そのおかげかゴキブリなど忌み嫌われる昆虫もヘーキ。
そしてアジアの屋台で飯を食う際には常にハエと共存していたため、ますます鍛えられたように思います。
虫ぐらいムシしないと旅はできない。
あ、もちろん需要があれば「きゃーコワイっ!」とでも言いますが。
そんなわけで、先日訪れた「自然と暮らす切り紙の世界ー里山のアトリエで生まれる命たち」という展示も、紙で作られた昆虫たちをワクワクしながら見て回りました。
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全ての作品は写真家の今森光彦の手によるもの。
今森光彦は昆虫を中心に世界各国で写真を撮るほか、琵琶湖のほとりにアトリエをかまえ、人と自然がかかわる「里山」の保存を行っています。
数年前に藻谷浩介の『里山資本主義』という本が売れて、いまでこそ「里山」は聞き慣れた言葉ですが、今森光彦はこの概念を早くから提唱し実践していました。
わたしは彼の写真作品については雑誌などでたびたび目にしていたものの、切り紙の作品をこんなに作っていたとは知りませんでした。
切り紙なんて紙を切って貼っただけでしょ、と子どもの遊びの延長程度に思っていましたが、紙を重ねて平面で表された虫や鳥、動物たちは、色の鮮やかさとともに、羽の一枚一枚に数色を重ねる繊細さもまとっています。
切り紙の作品集『Aurelian』で、
《私がハサミにこだわりつづけた理由は、ハサミの場合は、道具としてではなく、あたかも神経がかよっている手の先の一部のように感じられたからだと思います。》
と語っているように、近づいてよく見ると、紙が浮いている部分の影や、ハサミの切り込みが見えて、神業のなかに人間味が感じられます。
色とりどりの植物にむらがる蝶やハチドリの作品を見て、わたしはペルーのナスカの公園で、忙しく飛び回るハチドリの様子を思い出しました。
紙と一本のハサミで作られた作品が、比喩を超えて「生きている」。
こんなにも生命にあふれた作品を作り上げることができるのは、日々虫や鳥を徹底的に観察しているからでしょう。
《切り紙というと、部屋の中の作業に思われがちですが、私の場合は、里山を散策したり、見知らぬ土地を旅したりなど、幅広い野外活動とつながっています。
もしかしたら、切り紙は、フィールドから感性をもちかえるためのエコバックのような働きをしているのかも知れません。》
(『Aurelian』より)
世の中には見てもいないことをペラペラという人もいますが(特に立派な名刺を持ったスーツ姿の人に多い)、「見て触って感じた」人々の意見や作品こそ、真に信頼に足る。
写真や切り紙に限らず、改めてそう思いました。
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さて、今森光彦が昆虫に深い愛情を抱いたのには、やはりあの名著があったようです。
《幼いころに『ファーブル昆虫記』を読み、いつかはファーブルのように好きな虫を、好きなだけ、好きなように見ていたい。
そんな思いをずっと心の底に抱えていたのです。》
(「kotoba」2017年夏号より)
そして、ふるさとの自然環境の劣化を目の当たりにしていた彼は、滋賀県の田園にアトリエを建て、里山を保存した。
《雑木林やため池を造り、畑地を備えたファーブルのアルマスのようなものを造る。
そうすれば、ここに様々な生き物が集まってくるはずです。》
(同上より)
「アルマス」とは荒地を意味し、ファーブルが造った庭が、こう呼ばれています。
わたしが昆虫や自然に関心を持ったのも、『昆虫記』がきっかけです。
思えば小学生のときに出会ったファーブルが、渋めのナイスミドル好きの原点と呼べるのかもしれない……というのはおいといて、わたしも「アルマス」が見たくて南フランスを訪れた、ファーブルに憧れを抱く者の一人です。
(⑵につづく)
(神戸ファッション美術館のファッショナブルな外観)
(心から「楽しいっ! 」と思える展示だった。大人も工作したっていいじゃないか)