【PHOTO】ベトナムに死す ⑴ ー戦場カメラマン・沢田教一展
昨年の7月、日差しが照りつける真夏のベトナムを訪れました。
ラオスからバスでハノイに入り、フエ、ホイアン、ニャチャン、ホーチミン市とひたすら南下。
そのあとカンボジアに抜けました。
王宮都市フエで思い出すのは、王宮近くの屋台で定食をうまいうまいと食った直後に腹が下り、営業しているのかわからない店舗のトイレに駆け込んで格闘していると、急に清掃が始まって床が水浸しになり、バッグが水没したということで、今となってもいい思い出ではありません。
ぜーったい、あの定食が元凶だ。
そのフエの、約50年前の写真を先日見ました。
それはわたしが見たフエとは違った。
市街戦で城壁越しに銃をかまえる兵士たち……。
ベトナム戦争で従軍取材した、沢田教一の写真展にあった一枚です。
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沢田教一は青森県出身のカメラマン。
貧しい家庭に生まれましたが、12歳のとき、新聞配達で稼いだ金で初めてカメラを買ったそうです。
そして19歳のとき三沢基地内の写真店で働きはじめ、そこで11歳年上のサタと出会い、20歳で結婚しました。
沢田教一にとって、この妻・サタの存在は大きい。
「カメラマンである以上、現場に行ってシャッターを切るしかない」と言う沢田に、サタは「私も一緒ならいい」と言って、ともにベトナムにわたりました。
そうして撮られた数々の写真は、ベトナムの解放軍兵士、米軍、戦時下の双方の姿を、ときにはあたたかい視線で、ときには残酷な現実を真っ向からとらえていました。
前提として、この戦争はベトナムで行われているということを忘れてはいけない。
つまり、ふつうの住民が兵士となって武器をとり、女性がレイプされ、老人子どもが殺され、国土を枯木の森にされたのは、ベトナム側だけなのです。
しかし、あれだけの野蛮な殺戮をした米軍も、兵士たち個人はやはり人間なのだと感じます。
仲間に人工呼吸したり、死んだ仲間を運んだりする米兵の写真を見ると、そう思う。
装甲車にひきずられるベトナム人兵士の死体を撮った《泥まみれの死》。
一方の悲惨が一方の戦果。やりきれません。
ベトナムでの写真でピュリッツァー賞を受賞し名を上げた沢田は、「平和になったら、ベトナムを北から南までゆっくり撮影旅行したいな。ベトナム人の笑顔って最高なんだよ」と言いつつ、場所を移して撮影を続けます。
北ベトナムへの補給路をめぐって争奪戦が行われ、無政府状態にあったカンボジア。
沢田はプノンペンから30数キロ先の国道で、何者かに襲われ死んだ。
34歳でした。
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妻・サタは昨年夏にベトナムを再訪し、ホーチミン市の戦争証跡博物館を訪れたそうです。
わたしも同じ頃博物館に行きましたので、ひょっとするとサタさんと、どこかですれ違っているのかもしれません。
発展の最中にある今のベトナムの下にある犠牲を、わたしは1年前、さほど意識していなかった。
あのエネルギーあふれる灼けつく土地が、いかに多くの血を吸い込んでいたことか……。
今後ベトナムを訪れるときには、きっと写真で見た50年前のベトナムを思い出してしまう。
もうわたしには、ベトナムという土地で、素直な観光はできないような気がします。
(⑵につづく。暗いけどつづける)
(上部に大きく載っているのが《安全への逃避》。米軍の爆撃で村を追われた家族は、「安全」な場所を求め、命がけで川を渡らねばならなかった)