【ART】郵便配達人との再会 ⑴ ーボストン美術館の至宝展
真昼の上野、ほっこりと懐かしい気持ちになったのは、アメリカで出会ったある人物と再会したからです。
東京都美術館「ボストン美術館の至宝展」に飾られた、「郵便配達人」ことジョゼフ・ルーラン、そしてルーラン夫人。
わたしは今年の春、アメリカの美術館で、ゴッホが描いたルーラン夫妻の別の肖像画を鑑賞していました。
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ボストン美術館は1876年開館の歴史ある美術館、現在は約50万点ものコレクションを所蔵しています。
本展覧会ではその中から80点を展示しており、エジプト、中国、日本、フランス、現代アメリカ美術と、同美術館のダイジェストといった感じ。
それぞれコンパクトにまとめられていました。
目玉はやはり、チケットやパンフレットにも使われている、ルーラン夫妻の肖像でしょう。
ゴッホのタッチは主役になれる強さがあるし、椅子に座った全身画が夫婦で並べられているのは、どっしりした存在感もあります。
ゴッホはルーラン一家の絵を20点以上も制作しているようで、私はルーランの小さめの肖像などを、今年の春にアメリカのいくつかの美術館で鑑賞していました。
小さな目に、つり上がった眉、帽子をかぶったルーランは、一度見たら忘れられない顔つきです。
嘉門安雄『ゴッホとロートレック』のなかでは、このルーラン夫妻について言及している箇所があります。
《人びとはこの絵に、日本の浮世絵版画への愛着と信頼を見出だす。
たしかに、ゴッホと浮世絵を考えるとき、欠くことのできない作品であり、彼のジャポネズリぶりを見事に表現する作品である。
だがそれ以上に、ルーランの転任に伴う別れが、愛惜が、ルーラン像を描くとともに、その妻の絵姿に、母と子の愛情、母への想いを託したのである。》
難しい性格のゴッホが「町の人びとと決定的な違和の状態」にあった時期に、ルーラン夫妻は唯一の理解者だったようです。
また、母への複雑な思いを抱き続け、ついに母の肖像を残さなかったゴッホが、母への想いを絵に込めたとの解釈がなされています。
西洋美術史の大家である高階秀爾も、朝日新聞の記念号外で、ルーラン夫人について「この女性はゴッホには、聖母のような崇拝の対象でもあったと思う」と述べており、丹念に描き込まれた肖像を見つめていると、その言葉に納得できます。
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もちろん同展覧会には、ゴッホ以外にも見所があります。
喜多川歌麿、与謝蕪村、村上隆、モネの「ルーアン大聖堂」も一つ来ていました。
わたしにとっては、フランス美術コーナーの、花や果物を描く静物画の見比べが楽しかった。
《落穂拾い》や《種をまく人》で有名なミレーによる静物画は3点しか知られていないようですが、そのうちのひとつ《洋梨》もありましたし、水辺の風景が得意なシスレーの《卓上のブドウとクルミ》も新鮮でした。
セザンヌの《卓上の果物と水差し》やルノワールの《陶製ポットに生けられた花》なんかを見ていると、セザンヌは何を描いても硬質な意志を感じさせるし、ルノワールはふんわり幸せな香りが漂ってくるようだし、「静物」という地味なモチーフだからこそ、個性がより浮き出ているなと思ったものです。
それにしても、今秋の上野はジャポニスムが熱い。
東京都美術館では「ゴッホ展」を、国立西洋美術館では「北斎とジャポニスム展」が開催されるようです。
えーまた印象派ぁ? と思いつつ、わたしもしっかり前売り券を購入し、すんごく楽しみにしております。
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さて、ゴッホの描いたルーラン夫妻を眺めていると、わたしの頭には、欲望や執念や愛情をぎゅーっと詰め込んだような、アメリカの美術館でのひとときがよみがえってきました。
そんな美術館についてのはなしは、⑵につづく。
(現在いそうろう中の祖母の家には置き物が大量にある。もったいないので今後も写真に登場させるつもり)